Archive

時間稼ぎとしての枕詞 ―― 鹿島茂

時間稼ぎとしての枕詞 ―― 鹿島茂

 大学の二年生ゼミで「小倉百人一首」を読んでいる。戦前までの日本文学や演劇を理解するには「小倉百人一首」の素養が不可欠だと考えるようになったからだが、先日、「あしびきの」「しろたへの」といった枕詞の説明をしているときに、ふと思いついたことがある。
 それは、枕詞というのは、万葉の時代に和歌の応酬を口頭でやっているときに生まれた「時間稼ぎ」「場もたせ」の表現ではないかということだ。つまり、これといった明確なイメージは浮かんでこないので、差し当たり、「あしびきの」とか「しろたへの」といった意味のない枕詞を並べておき、その間に頭の中で言葉やイメージを組み立てて「山鳥の尾の」とか「ころもほすてふ」と続ける。つまり、意味論的には「あのー」とか「えーと」に等しいわけだが、それでいて、形式的には、立派な和歌的表現として認められるというまことに重宝な手法であったのだ。万葉の時代が終わって、古今、新古今の時代になり、和歌が口頭の応酬でなくなると、枕詞も消えるという事実はなによりも、「時間稼ぎ」「場もたせ」説の裏付けになってはいないだろうか?
 では、なぜ、こんな枕詞の説明を思いついたかというと、それは大学院時代に語学の天才と言われた畏友のY君から聞いた会話上達法の記憶があったからだ。
 Y君曰く「日本語の会話を速記で活字にしてみるとわかるのだけれど、話し言葉というのはその多くが意味のない《時間稼ぎ》《場もたせ》の表現なんだね。つまり、われわれは口ではなにか話しているうちに頭で次に言うべきことを考えているわけだ。ところが外国語会話となると、これができない。日本人はいきなり意味のあることを言おうとして、頭の中であらかじめ文を組み立てる。これがいけない。会話が始まっても沈黙の時間が続くことになるからね。そこで、ぼくは、英語でもフランス語でも、意味のない《時間稼ぎ》《場もたせ》表現を最初に暗記することにした。できるなら、状況におうじて一〇個くらいあるといい。これを言っておけば、差し当たって沈黙をしないですみ、その間になにか考えることができるわけだからね。
 わたしはこれを聞いて、なるほど外国語のプロというのは、言語の本質を摑むプロでもあるのかと感心し、さっそくフランス語の《時間稼ぎ》《場もたせ》表現を暗記することにした。もっとも、Y君と違って本質的なところで語学的才能に恵まれていなかったせいか、さして会話は上達できなかったが。とはいえ、会話とは国語、外国語に限らず、《時間稼ぎ》《場もたせ》が基本だということはしっかりと記憶に刻みこむことができた。

 さて、ここで、話をいきなり国会で交されている政治家の質疑応答に転ずる。というのも、たまに国会中継を聞いていると、そのほとんどが意味を欠いた《時間稼ぎ》《場もたせ》表現であることに驚くからだ。意味ある部分だけをつないだら、国会中継など数分で終わってしまうのではないか?
 そう、枕詞につぐ枕詞、いや全部が枕詞だと言っていい。この意味では、日本の国会は万葉集の伝統を正しく受け継いでいるのである。
(フランス文学者)

日本経済新聞 2009年5月13日 プロムナード
  1. 2009/06/20() 17:00:06|
  2. Category: None
  3. | Trackbacks:0
  4. | Comments:0

遠方指向性の消失 ―― 鹿島茂

遠方指向性の消失 ―― 鹿島茂

 若者が、とりわけ男子が外国文化や言語への興味を失い、「内向き」になっている現象は、二段階の変化によってもたらされたと思う。一つは、一九七五年頃から生じた大学生の質的変容。もう一つは九〇年代バブル崩壊以後の社会の動向。このうち、とりあえず、前者について話したいが、しかし、その前に、明治以後、日本の若者がなぜ外国の文化や言語に憧れ、西洋的な教養の摂取に熱心だったのか、それを明らかにしておこう。
 開国によってもたらされたショックによって、日本は欧米の文化の移入に熱心になったが、全員がそうだったわけではない。大衆は舶来品をありがたがったが、欧米文化そのものに興味を持ったわけではなかった。反対に、高等教育を受けた中層以上の人々はほとんど例外なく、欧米の文化を一つの規範として受け入れるようになった。
 なぜかといえば、教育を介して「知」の過程にアクセスすることで、彼らの心の中に必然的に「遠方指向性」というものが生まれたからだ。学生たちは、身近にいる両親の言葉よりも、未知の著者の言葉を信じた。活字であるという、実体のなさゆえの「遠さ」が、魅力的に見えたからである。やがてこの「遠方指向性」は「ここよりほかの場所」の原理で、知的エリートをパリやロンドンの方を向かせるようになる。つまり、エリートは知的過程に参入することで、必然的に欧米文化への親近感を強くしていったのである。
 そして、彼らの知的な要求に答えるために外国文学・語学系の学部や出版社、映画会社・レコード会社などが生まれた。いわゆる「外文系」と呼ばれる文化装置である。これが、明治から一九七五年頃まで続いた。
 ところが、団塊の世代が大学を卒業し終わった一九七〇年代半ばから、見えない地層で地滑り的な変化が生まれていた。外国のモノ、とりわけブランド品が街に溢れるのに反比例するように外国文化への興味が失われていくという現象である。モノと文化はトレード・オフ(どちらか一方を手に入れたら、もう一方を手放さなければならない)の関係にあるかのようであった。これが外文系の衰退の始まりであった。
 なぜ、こうした現象が生じたのか?
 知的エリートであるはずの大学生が、遠方指向性を特徴とする知的上昇の過程に入ることなく、子供時代の延長として「モノ」を愛するようになったからだ。これは男子においてはオタク化現象、女子においてはブランド品愛好となってあらわれた。
 しからばなにゆえに、大学生は知的過程に参入しなくなったのか?
 学園紛争に懲りた文部省が、大学生は生活領域以外の余計なことは考えず、ただ実学的な勉強に打ち込んでいればよいという方針を打ち出したからだ。その典型が大学の郊外移転である。これにより、学生は無菌的環境に置かれ、社会との接点を失う。知的な上昇とは、生活領域以外の、たとえば「社会と自分との関係」などに思いを巡らすことから始まるのだが、当時の社会は総力をあげて「君、そういう余計なことは考えなくてもいいよ」と呼びかけたのである。
 かくて、大学生の知的過程への参入の機会は消滅し、必然的に遠方指向性もなくなった。そして、当然のように、外文系への無関心が生じたのだが、しかし、それはまだほんの序曲にすぎなかったのである。
(フランス文学者)

日本経済新聞 2009年6月17日 プロムナード
  1. 2009/06/20() 15:30:18|
  2. Category: None
  3. | Trackbacks:0
  4. | Comments:0

公務員の意識改革を促す公文書管理法

公務員の意識改革を促す公文書管理法

 公文書管理法案は今国会で成立する見通しだ。公文書を民主主義の根幹を支える国民共有の「知的資源」と位置づけ、主権者である国民が「主体的に利用し得る」とした。国の仕事は文書に残し、その公開に努めることによって政策決定を透明かつ適正なものにしてゆくのが法律の趣旨である。
 大幅修正した法案は11日に衆院を通過、参院に送られた。文書作成の目的を明確化、意思決定の経緯を含め行政機関の事務・事業の実績を合理的に跡づけ、検証できるようにする義務を課した。保存期間が満了して公文書を廃棄する場合、内閣総理大臣の同意が必要であり、場合によって廃棄をやめさせられる――などの内容だ。職員対象の研修も充実させる。
 さらに保存期限内の文書を集中管理する中間書庫を国立公文書館に設置する検討も始める。公文書館に移管された歴史公文書は、作成後30年を過ぎれば原則公開するなどとする付帯決議もつけた。
 ただ、どんな法律も運用次第。法案修正を主導した自民党の上川陽子衆院議員は「公文書管理法の主眼は公務員の意識を変える点にある。緊張関係を保ち、改革の意識を維持するよう努めていく必要がある」と語る。公文書館の独立性を高めることを含め、10年、20年にわたる国家的課題である。

日本経済新聞 2009年6月19日 文化往来
  1. 2009/06/20() 15:20:03|
  2. Category: None
  3. | Trackbacks:0
  4. | Comments:0